父性の欠落
─柄谷行人
「父のなかの『欠落』を裁くかわりに、その欠落を耐えた悲哀に涙ぐむのである」。
柄谷行人『江藤淳論』
 一九八〇年代、柄谷行人は、蓮実重彦と並んで、全共闘世代以降の作家や批評家へ絶対的な影響力を及ぼしている。高橋源一郎や島田雅彦、奥泉光、浅田彰、東浩紀等には明らかに柄谷の影が見えるし、編集者やアカデミズムにも及んでいる。その中には、「幸運は勇者に手を差し伸べる(Audentes fortuna invat)」というプブリウス・ウェルギリウス・マロの言葉を実証している「たそがれ清文」もしくは「文芸批評家のエド・ウッド」とも言われる佐藤清文も含まれている。「あの時あなたに会いさえせねば、あたしゃ苦労の味知らず」。中上健次の葬儀委員長と激しく対立していたのは、Curriculum
Vitaeがいまだにないこの史上最低の批評家が評価した
”Greetings, my friend. You are interested
in the unknown, the mysterious, the unexplainable... that is why you are here.
So now, for the first time, we are bringing you the full story of what
happened... 
(Extremely serious)
We are giving you all the evidence, based
only on the secret testimony of the miserable souls who survived this
terrifying ordeal. The incidents, the places, my friend, we cannot keep this a
secret any longer. Can your hearts stand the shocking facts of the true story
of Edward D. Wood, Junior??”
(Tim 
文学を対象にした『畏怖する人間』や『意味という病』、『日本近代文学の期限』、『反文学論』、『批評とポスト・モダン』は示唆に富んでいるとしても、他の著作の中にも優れた洞察は少なくない。しかし、第一二回群像新人文学賞受賞者が最も影響を与えたのは『マルクスその可能歳の中心』や『隠喩としての建築』、『内省と遡行』、『探求』といった理論的著作であろう。「批評はカラスに寛容で、鳩には責め立てる(dat veniam corvis,vexat
censura columbas)」。
All: Fair is foul, and foul is fair:
Hover through the fog and filthy air.
(William
Shakespeare “Macbeth” Act 1 Scene 1)
一方で、故冥王まさ子の元夫にはいくつかの問題点が指摘されている。読解対象を通念に対して差異化させて、戯れ、思わせぶりな言説を振りまき、「驢馬が教壇に(asinus in cathedra)」いるようなエピゴーネンを数多生み出してもいる。また、理論的影響力とは別に、元法政大学教授の実務能力の欠如はよく知られ、『季刊思潮』や『批評空間』といった批評の雑誌を主催し、New Associacionnist
Movement(NAM)に協力したものの、すべて「魚に終わる(desinit in piscem)」(クイントゥス・ホラティウス・フラックス)。A latereな彼はインプレサリオであって、マネージャーではないというわけだ。岩波書店から選集を刊行している批評家に対する批判はずっとあったものの、彼を超える影響力を持った批評家は依然として登場していない。
Crash 
(Ron
Shelton “Bull 
 一九六〇年代は吉本隆明、七〇年代は山口昌男、八〇年代はKKが中心的な批評家である。『共同幻想論』の筆者は全共闘世代のカリスマだったし、大江健三郎は中心=周縁理論の提唱者へ帰依しているとさえ言えるだろう。「山口昌男が誰かに悪口をいわれたとき、それを聞いた大江健三郎が山口昌男に電話をかけて、『くやしい』と言って電話口でサメザメと泣いたという噂があります」(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』)。ニュー・アカデミズムにも、『構造と力』の著者や中沢新一、上野千鶴子といったスターがいたけれども、近畿大学国際人文科学研究所所長以降、後発世代を生み出せる文芸批評家はいない。
 後継者を出すには、自分の作品を読ませられるだけでは不十分であり、読者をそこから書くことへと向かせなければならない。メッセージ性だけでは、影響は増殖しない。マッサージ性が不可欠である。
竹田青嗣は、必ずしも、このポストモダン文学のボスに好意的ではないが、『読みびと知らずのバルト』において、「メルロ=ポンティに関して、そのイメージのはじめの核をわたしは柄谷行人の評論から与えられた」と次のように述べている。
そこでメルロ=ポンティの「両義性」という言葉は、「あいまいさ」という言葉に微妙に重ねられ、存在論的な陰鬱を鮮やかに浮かばせられていた。このイメージを核に孕まれた問題の魅力が、わたしをメルロ=ポンティにむかわせた。
 また、森毅は、『一刀斎の古本市』で、彼の『探求T』について次のように述べている。
 この本は、題名から知れるように、ウィットゲンシュタインから始まる。その上に、もうつきあうことに辟易している、マルクスまでが登場する。
 それだのに、この本を読むことが、なぜか快感なのだ。おそらく、この一年ほどに読んだ本のうち、もっとも引きこまれた本のひとつだろう。
 ウィットゲンシュタインの言語学批判と、マルクスの経済学批判とに、同型な構造を見る、その場所のゆえかもしれない。しかし、それだけではあるまい。
 すごく明晰な論理はこびなのに、半分も読んで行くと、どこへ持って行かれるのか、いくらか不安になる。キルケゴールとか、レヴィナスとか、ぼくのもっとも苦手とする思想家どもが、現われはじめることになる。それに、数学論とドストエフスキー論とが入り乱れると、数学少年と文学少年のはさみうちに合うときのことを連想する。
 およそ毛色の違う二人がこのように評価している。「快感」は「知的スポーツとしての快感といったようなもの」である。それは元『群像』編集長渡辺勝夫が育てた批評家の相関性への意志に由来する。この「快感」が後発世代を生み出した一つの理由であろう。
この引越し魔の批評家の日本の文芸批評における最大の功績は読解の主眼を因果関係から相関関係への転換させた点である。彼の登場により、文芸批評の扱える引用範囲が格段に広がっている。この手法は多くの後発の批評家がとり入れる。
 東京大学大学院英文科修士課程修了者自身も、『マルクスその可能性の中心』の「あとがき」の中で、相関性への意志を次のように告げている。
本書には、マルクス論とともに、日本文学に関するエッセイを入れている。私はそれらをすこしも区別していない。文学はあいまいで、哲学は厳密だなどということはありはしない。哲学も結局は文学、すなわち言葉にほかならない。 
マルクスを読むように、私は漱石を読んできた。つまり、マルクスも漱石も、けっして私が「研究対象」として選んだものではない。厭になれば読まないし、たとえば漱石については、もう書く気がしないと公言していた次期もある。ところが、どういうわけか、そこに戻ってくる、それらは、私が折りにふれてたちかえり、自分の思想を確認するテクストであるだけではない。むしろ、それらを「読む」ということをおいて、私の「思想」なるものは存在しないのである。しかし、なぜそれらが特権的なテクストとして選ばれているのかは、私にはわからない。 
 夏目漱石と思想史上の巨人を平行して読むことは、因果関係に拘泥しているなら、不毛にならざるを得ない。東京大学経済学部卒業者は批評を相関関係の記述へと転換する。『日本近代文学の起源』で、かの文豪の『文学論』をとりあげ、ロシア・フォルマリズムとの類似性を指摘するが、両者の直接的な影響関係はない。江藤淳の『漱石とアーサー王伝説』のように、影響を実証してきた従来の批評家であれば、これは触れるべき話題ではない。元ブントの批評家は時間的な順序にのみ囚われてきた日本の文芸批評を空間的に広げる。
 その相関性を展開するための理論的基礎として数学を援用する。カール・マルクスとフリードリヒ・ニーチェやジクムント・フロイトの相関性を論じているものの、『マルクスその可能性の中心』では数学に関する記述がさほど見られないけれども、『隠喩としての建築』や『内省と志向』からその傾向が顕著になっている。『内省と遡行』においても、現象学の開祖が数学者だったことを重視し、そこから議論を展開している。相関性を論じたのは彼が最初ではない。吉本ばななの父は、『言語にとって美とは何か』において、『資本論』の方法を言語分析に使っている。六〇年代のスーパースターの正統な後継者はそういった手法を拡大応用したのであり、それには「普遍学」としての数学を必要としている。
 二〇世紀、数学は、法則性が見出せるいかなる学問領域にも基礎付けとして用いられている。クロード・レヴィ=ストロースの文化人類学、ノーム・チョムスキーの普遍文法、ジャン・ピアジェの発達心理学、イアニス・クセナキスの推計音楽は数学なしには考えられない。さらに、意識していないとしても、構造主義以降の思想家たちの方法は数学によって形式化できる。ミシェル・フーコーはルベク積分であり、ジャック・ラカンは複素関数である。ラカンは精神世界を「現実界(le
reel)」・「想像界(l'imaginaire)」・「象徴界(le symbolique)」と区分している。「虚(imaginary)」は、「実数(Real Number)」と「虚数(Imaginary Number)」の関係が示している通り、リアルの反意語である。「ヴァーチャル(virtual)」の反対語は「リアル(real)」ではなく、「名目(nominal)」が相当する。名目の類義語は「仮想(supposed)」や「擬似(pseudo)」である。前者は仮に想定したものであり、後者は外見は似ているが、本質的には異なるものを指す。数学では、記号は「シンボル(Symbol)」と呼ばれる。ラカンの図式はこの虚数をめぐる数学の世界のアナロジーで語られるべきである。付け加えるならば、ベネディクト・アンダーソンが一九世紀に普及した国民国家を「想像の共同体(Imagined
Community)」と定義したけれども、「虚の共同体(Imaginary
Community)」とすべきであり、その上で、現代社会は「ヴァーチャルな共同体(Virtual
Community)」るる。ジル・ドゥルーズは微分方程式、ジョナサン・カラーは『ディコンストラクション』においてジャック・デリダの脱構築を不完全性定理との類似を指摘しているが、むしろ、差分方程式であり、ポール・ド・マンは偏微分の手法と見なせよう。
I’m in love with Jacques
Derrida,
Read a page and I know I don’t
need to,
Take apart my baby’s heart.
I’m in love
To err is to be human, to
forgive is to divine,
I was like an industry,
depressed and in decline.
Here comes love forever
And it’s here comes love for no
one
Here comes love for Marilyn
And it’s all my baby, all my
baby, what are you gonna do?
In the reason in the rain
Still support the revolution
I want it, I want it, I want
that too,
But baby, but baby, it’s up to
you
To find out something that you
need to do, because…
(Scritti Politti “Jacques Derrida”)
構造主義は積分、ポスト構造主義は微分の技術に基づいているという点で、両者の関係は表裏一体である。元イェール大学客員教授は本格的に数学を日本の文芸批評に導入した初めての批評家であるが、彼の試みはこうした世界的な流れと相関関係にある。
Brush up on my field work
Better brush up on my field
work
Gonna get my fingers dirty
Better brush up on my field
work
One thing I need
Is to understand this jungle
Before I can untangle
The part of me that's fungoid
Was a hundred and three
When the world was still a baby
But instinct's an equation
You could program in an android
Brush up on my field work
Better brush up on my field
work
Gonna get my fingers dirty
Gonna brush up on my field work
Somewhere inside
There's a place where we can
travel
A code we could unscramble
A riddle to unravel
Brush up on my field work
Gonna brush up on my field work
Gonna get my fingers dirty
Gonna brush up on my field work
Somewhere inside me
Are the caves of 
And the sands of 
Better brush up on my field
work
(Thomas Dolby & Ryuichi Sakamoto “Field Work”)
研究のアプローチは、精神医学を例にとると、三つに大別できる。第一に、病理学的・臨床的アプローチである。それは、精神分析を代表に、非人工的・全体的・深層的に現象を把握できる反面、主観的印象・解釈に偏りやすいという傾向がある。第二に、現在の主流の方法論である相関的・測定論的アプローチがあげられる。多くの変数を扱えるため、多様な関係性を認識できる。ただし、因果関係を説明するのには向いておらず、問いに対して自己解答的な結論に陥りやすい。第三に、行動主義が示している実験的・操作的のアプローチである。特定の変数に限定するため、データの妥当性を高められ、因果関係を明確化できる。個別研究には適しているものの、人工的な状況を前提にしている以上、その結論を一般化することは困難である。それぞれに長所と短所を持っているので、通常はこの三つのアプローチを融合させて、対象に向かうが、複雑化・多様化した状況を反映して、変数を多くカバーできる相関的な方法論が好まれている。
Wait a minute baby... 
Stay with me awhile 
Said you'd give me light 
But you never told be about the
fire 
Drowning in the sea of love 
Where everyone would love to
drown 
And now it's gone 
It doesn't matter anymore 
When you build your house 
Call me home 
And he was just like a great
dark wing 
Within the wings of a storm 
I think I had met my match --
he was singing 
And undoing the laces 
Undoing the laces 
Drowning in the sea of love 
Where everyone would love to
drown 
And now it's gone 
It doesn't matter anymore 
When you build your house 
Call me home 
Hold on 
The night is coming and the
starling flew for days 
I'd stay home at night all the
time 
I'd go anywhere, anywhere 
Ask me and I'm there because I
care 
Sara you're the poet in my
heart 
Never change never stop 
And now it's gone 
It doesn't matter what for 
When you build your house 
I'll come by 
Drowning in the sea of love 
Where everyone would love to
drown 
And now it's gone 
It doesn't matter anymore 
When you build your house 
Call me home 
All I ever wanted 
Was to know that you were
dreaming 
(There's a heartbeat and it
never really died) 
(Fleetwood Mac “Rhiannon”)
援用しつつも、元コロンビア大学客員教授は最先端の数学を使っていたわけではない。ダグラス・R・ホフスタッターが出版した『ゲーデル、エッシャー、バッハ』と同様、主に、一九二〇年代までの集合論を援用している。
 時代遅れの数学を考察すること自体を冷笑すべきではない。谷山豊は、一九五五年、モジュラー形式と楕円曲線の美しくも深い関係を予想する。モジュラー形式は当時欧米では時代遅れと見なされ、なおかつ奇天烈として興味を覚えたのは彼の弟子の志村五郎だけだったものの、その二歳下の研究者が一〇年かけて一般化・洗練化させ、谷山=志村予想として発表している。この大胆な予想は、後に、アンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を証明する際にアリアドネの糸になっている。かび臭い遺産がお宝だということは決して少なくない。
I am he as you are he as you
are me and we are all together.
See how they run like pigs from
a gun, see how they fly.
I'm crying.
Sitting on a cornflake, waiting
for the van to come.
Corporation tee-shirt, stupid
bloody Tuesday.
Man, you been a naughty boy,
you let your face grow long.
I am the eggman, they are the
eggmen.
I am the walrus, goo goo
g'joob.
Mister City Policeman sitting
Pretty little policemen in a
row.
See how they fly like Lucy in
the Sky, see how they run.
I'm crying, I'm crying.
I'm crying, I'm crying.
Yellow matter custard, dripping
from a dead dog's eye.
Crabalocker fishwife,
pornographic priestess,
Boy, you been a naughty girl
you let your knickers down.
I am the eggman, they are the
eggmen.
I am the walrus, goo goo
g'joob.
Sitting in an English garden
waiting for the sun.
If the sun don't come, you get a
tan
From standing in the English
rain.
I am the eggman, they are the
eggmen.
I am the walrus, goo goo g'joob
g'goo goo g'joob.
Expert textpert choking
smokers,
Don't you think the joker
laughs at you?
See how they smile like pigs in
a sty,
See how they snide.
I'm crying.
Semolina pilchard, climbing up
the 
Elementary penguin singing Hari
Krishna.
Man, you should have seen them
kicking Edgar Allan Poe.
I am the eggman, they are the
eggmen.
I am the walrus, goo goo g'joob
g'goo goo g'joob.
Goo goo g'joob g'goo goo g'joob
g'goo.
(The Beatles "I Am the Walrus”)
数学に限らず、コロンビア大学比較文学科教授の知識には誤解や曲解も少なくない。
『アメリカにおけるヘーゲルの最初の弟子たち』を読んだことを、『批評とポスト・モダン』において、次のように回想している。
彼らは十九世紀にドイツから中西部に亡命した“青年ヘーゲル派”であり、ドイツ語で活動した。そして、アメリカの思想史に何の痕跡も残さなかった。むしろ、アメリカの思想史において『ヘーゲルの最初の弟子』は、ウィリアム・ジェームスといった方がよいが、その後のプラグマティズムの流れでは、いうまでもなくヘーゲルの痕跡は消えている。
しかし、この時期、セントルイスでG・W・F・ヘーゲルの『論理学』が広く読まれていたということはかなり以前に実証されている。かの都市は南北戦争の際の境界に位置し、合衆国の分裂を統合したいという知識人の願望から流行したのではないかと推察されている。また、彼らが主催していた雑誌からジョン・デューイがデビューしており、その偉大なプラグマティストの作品にははっきりとドイツ観念論の完成者の痕跡が残っている。「間違いは誰にも起こる。しかし無知な者だけがその間違いに固執する(Cuiusvis hominis est errare;
nullius, nisi insipientis, perseverare in errore)」(マルクス・トゥッリウス・キケロ)。
曲解や誤読を多く孕みながらも、八〇年代において、一九四一年生まれの批評家は知的なイコンである。彼のメルロ=ポンティ読解に影響を受けた批評家は、派手さのない文体ながら、論理的という点では、『現象学入門』や『自分を知るための哲学入門』、『ニーチェ入門』、『プラトン入門』は優れた入門書である。けれども、一九四七年生まれの批評家の後継者は登場していない。
文芸批評家にはロジック型・レトリック型・ワード型の大きく三つのタイプがある。それらは読者に対して、論理性で説明するか、修辞性でアピールするか、キャッチ・コピーを掲げるかを指す。日本の文芸批評家は、伝統的な、この批評の対象も含めて、二番目が多く、先の地味な批評家は一番目、七〇年代のスーパースターは三番目のカテゴリーに入る。「柄谷は意図して哲学の言語ゲームの外に、いわば『哲学の外部』に立っているからである。それゆえ、ウィットゲンシュタインやクリプキの『正しい』解釈などは、はなから彼の眼中にはないと言うべきである」(野家啓一『柄谷行人の批評と哲学』)。
Let him rock a little
Let him swinging
He is sorry
‘Cos there is something that
He couldn’t stay at all
Let him shake a little
Let him step a little
Let him worry
Because it(s Asylums In Jerusalem
Don’t let him worry, no
With his hammer and his popsicle,
They’ll put him in a hospital for good
Don’t let that boy go
Don’t let him go at all
Oh, oh, oh, oh, at all.
(Scritti
Politti ”Asylums In 
「柄谷のおもしろいところは、何をやっても愛嬌があって、ちょっととんちんかんなようで、なにかしらこちらがう−んと考えさせられるというところです。彼はムチャクチャ言っても済んじゃうわけです。『あの頃、ちょっとぼく、頭がおかしくなっててね』とか言うと、みんな喜んじゃうんです。そういうイメージがあるから、かなりきついことを言っても愛嬌があるんです」(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』)。
 かのマルクス主義者は『内省と遡行』から『探求』、さらに『トランスクリティーク』へと「態度」を変更したと告げている。この三者の間で、姿勢はともかく、読解手法にさほどの違いはない。彼の方法は、デビューして以来、一貫している。哲学や文学から横断的に引用し、批評対象をカント流の二律背反に追いこみ、その無根拠性を明らかにする。彼はカントを『トランスクリティーク』において評価し始めたが、最初から、カント的である。『トランスクリティーク』は作者の自己発見であって、三書はそれぞれ『純粋理性批判』・『実践理性批判』・『判断力批判』に対応する。イマヌエル・カントは、『純粋理性批判』において、古典時代以来の哲学的問題を四つの命題に整理し、それらが自己矛盾を含んでおり、人間の理性の能力によって証明されえないことを導き出す。「無垢なる者の力は、課される命題の大きさにより成長する(crescit enim cum amplitudine
rerum vis ingenii)」(プブリウス・コルネリウス・タキトゥス)。
哲学におけるコペルニクス的転回者は、『純粋理性批判』の中で、「理性」の要求する「原則」について、次のように述べている。
 理性は与えられた条件付きのものに対して、条件の側における絶対的全体性を要求し、こうしてカテゴリーを超越論的理念に仕立て、経験的綜合を継続してついに無条件的なものに達することによって、この経験綜合に絶対完全性(全体性)を与える必要がある。理性は、条件つきのものが与えられていれば、条件の方も、従ってまた絶対に無条件的なものも与えられている。そして条件つきのものはかかる条件的なものによってのみ可能である」という原則に従って、このことを要求するのである。
 理性は、ジャン=ジャック・ルソーの信奉者によれば、推論の能力であり、それは現に与えられているものの存在理由やその原因・結果の条件に関する「完全性」や「全体性」に到達するまで問い続けることをやめない。けれども、人間の発する解答は限定を含んでおり、それは理性の求める「完全性」や「全体性」に対してはつねに不十分にならざるをえない。いかなる問いも原理的には人間にとって解答不可能である。
人間は理性を無駄遣いすることを停止し、具体的に経験できる世界の因果関係を明らかにする科学の領域は別にしても、自由の問題を論じるべきである。哲学者は人間はどのような世界にいるのかではなく、いかなる世界を目指せるのかに問題の設定をシフトさせることが肝要である。「髭面は哲学を語らない(barba non facit philosophum)」。
 5+7=12
(Immanuel Kant “Kritik der reinen Vernunft”)
 こうしたカント主義は尼崎生まれの文芸批評家の数学の援用から、明瞭に見られる。彼は、『探求』以前、クルト・ゲーデルの不完全性定理を重要な比喩として使っているが、そこで描かれるウィーンの数学者の理論がケニヒスベルクの哲学者とほぼ同一視されている。
『内省と遡行』の中で、不完全性定理をマルティン・ハイデッガーとのアナロジーとして次のように使っている。
 ハイデッガーにしたがっていえば、プラトンは「存在者の存在性」をイデアとすることによって、根拠を見出した。いわば、その上に、形式体系の建築が可能であるような根拠を。だが、ゲーデルが証明したように、いかなる形式体系も、自己言及に追いこまれるがゆえに、無─根拠である。そこからみれば、ハイデッガーのいう「忘却」は、無根拠性・決定不能性したがってまた過剰を生じさせる、自己言及性の禁止にほかならない。ハイデッガーが存在論的に追求することは、この禁止=忘却を遡行することによって、ある決定不能性の状態を見出しそこにとどまることである。
 不完全性定理は自己言及性のパラドックスを問題にしているわけではないし、決定不能製は無根拠性ではない。彼の主張の重点は不完全性定理ではなく、自己言及性のパラドックスから導き出される世界の無根拠性にある。実際、この著作以降、ヒルベルト・プログラムの破産管財人への言及はなくなるが、「無根拠性」はその後も頻繁に登場する。けれども、不完全性定理の意義は極東の文芸批評家の主張する無根拠性をはるかに超えている。
かの数学者は、野崎昭弘の『逆説論理学』によると、一九三一年、次の結果を証明する。
自然数の理論を形式化して得られる公理系においては、その公理系が無矛盾である限り、次のような論理式Aが存在する。
 論理式Aはその公理系から証明できない。
 「Aでない」ことを意味する論理式も、その公理系から証明できない。
自然数論を含む公理系の中では、次のように解釈できる論理式Hを作ることができる。
 その公理系は無矛盾である。
 そしてこの公理式Hはその公理系が無矛盾であるときは、決定不能である。
 不完全性定理は自己言及性のパラドックス──「彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。『クレタ人はいつも嘘つき、悪い獣、怠惰な大食漢だ』(『テトスへの手紙』一章一二節)──に類似している。発表者自身もそれを利用して説明している部分もあるが、両者には差異がある。前者においては、自然数の理論を形式化して得られる公理系では、その公理系が無矛盾である限り、公理系が無矛盾であるときには、「それが無矛盾である」ことを表わしている論理式も、その否定も、理論の中では決して証明できない決定不能である命題が存在する。一方、後者では、「『……嘘ではない』が証明可能」と仮定しても矛盾、「『……嘘である』が証明可能」と仮定しても矛盾であるわけだから、そこには証明不可能という余地が残されている。不完全性定理は証明可能=不可能の決定不能である命題の存在を告げているのに対して、自己言及性のパラドックスは命題の証明可能=不可能にかかわる議論、すなわち不可能の証明である。パラドックスはこうした不可能の証明に関わっており、一九六〇年代以降、それをめぐる記述が消えている。パラドックスから数学基礎論の誕生に至る歴史は、入門書を除けば、もはや語られない。近代哲学のチャンピオンの批判は不完全性定理ではなく、むしろ、不可能の証明のヴァリエーションである。かの批評家がカント的であるというのはこの点にある。
この不完全性定理を踏まえて、計算できない関数を示したのがアラン・チューリングである。計算できないものを示すためには、計算できる範囲を厳密に規定する必要がある。チューリング・マシーンが考案され、それをモデルとして「ノイマンの夢」ことコンピューターが誕生している。そのコンピューター上で乱数を考え、それによってグレゴリー・チェイティンは再び不完全性定理を導き出している。コンピューターをモデルに乱数性を定義すると、コンピューター自身は与えられた数列がランダムかどうかを一般的に判定できないというコルモゴルフ=チェイティンの定理が導き出されるが、これは不完全性定理のヴァリエーションである。このIBMの数学者は、アルゴリズムの情報理論に基づいて、数学それ自体の中に、すでに無秩序性が存在することを証明したというわけだ。
かのマルクス=カント主義者の問題意識は、不可能の証明への拘りが示している通り、一九世紀に属している。「運動」への偏愛もその一つの表われである。「愛は盲目(Amor caecus)」。
Sweetest girl in all the world
His eyes are for you only
Sweetest girl in all the world
His eyes are for you only
Sweetest girl in all the world
His words have died before me
Sweetest girl in all the world
His words have died before me
When they walk in the park, I
never can tell
When they walk in the dark, I
never can tell
It's just loving - ooh loving
The sweetest boy in all the
world
His life has got so lonely
Sweetest boy in all the world
His life has got so lonely
Sickest group in all the world
How could they do this to me
The sickest group in all the
world
How could they do this to me
What I want I will take, what
you think that you know
Oh such an awful mistake to
never let go
It's just loving - ooh loving
The weakest link in every chain
I always want to find it
The strongest words in each
belief
Find out what's behind it
Politics is pride too
Vagaries of science
She left because she understood
The value of defiance
When the government falls, I
wish I could tell
When, oh when necessity calls,
I never can tell
It's just loving - ooh loving
Sweetest girl in all the world
These words are for you only
Sweetest girl in all the world
These words have died before me
When they walk in the park, I
never can tell
When they walk in the dark, you
know that it never can be told
(Scritti Politti “The Sweetest Girl”)
海野弘は、『〈モダン・アート〉とはなにか』において、資本主義の勃興によって起きた一九世紀の神の死での芸術活動が運動という形態をとると次のように述べている。
階級的保護を失い、現代の商品社会、広告社会に投げこまれたモダン・アートは、商品化を避けることができず、その差異性を示すためのことば(宣言、広告)を持たなければならなかった。モダン・アートの特徴である、ことばの重要性をそれは予告している。美術がこれほどたくさんのことばを持ったことはなかった。美術があって、それを語ることばがくるのではなく、むしろ、まずことばが発せられ、そのことばにうながされて、美術作品があらわれるといっていいほどだ。
このような、ことば(観念、記号)の先行性からして、批評がそれまでとは比較にならないほど大きな影響力を持つようになる。批評家はモダン・アートの秘密をにぎる権威として振舞うようになる。モダン・アートは難解であり、一部のエリートによって解読できるという神話がつくりあげられる。
芸術は、階級的保護を失うと、時代の、普遍的な、支配的様式であることをやめて、諸〈運動〉に解体する。モダン・アートは、〈運動〉という様態をとるのである。
神の死により、芸術に限らず、哲学や政治も、「階級的保護を失うと、時代の、普遍的な、支配的様式であることをやめて、諸〈運動〉に解体する」。
かの共和主義者は、『探求U』において、一九世紀半ばから二〇世紀の初めの時期に革命的な活動が「運動」という姿をとっていたと次のように述べている。
むろん、こういう馬鹿げた詭弁的マルクス主義者やフロイト主義者を、マルクスやフロイトと混同してはならない。だが、前者をもたらす要因が後者にあることは確かである。それは彼がたんに学説や批判をのべたのではなく、そのことが運動となるほかないような形でそうしたということとかかわっている。それは、すでにいったように、世界宗教が「宗教批判」でありながら、それ自体宗教運動として展開されたことと類似している。だが、ここで注意すべきことは、そう名乗っていないにも関わらず、「科学」もまたたんなる学説や方法ではなく、「運動」にほかならないということである。事実、それもまた科学への「信仰者」をもたらしている。
フロイトの運動体についても同じことが言える。それは、フロイトへの完全な服従と敵対に二分されてしまう。いずれも「感情転移」なのだ。フロイトは、彼の描くモーゼに似ている。偶像崇拝を摘出しつづける彼は、彼を偶像化する集団を作り出すことになる。精神分析運動は、文字通 り"宗教"となる。フロイトがこの危険に気づいていなかったはずはない。しかし、彼はその理論的な核心を放棄することはできない。そうすれば、精神分析が「偶像崇拝」の傾向に押し流されること眼にみえているからである。
ヴィクトリア朝やフランツ・ヨーゼフ帝のウィーンの時代・社会の分析としてこれは妥当であろう。精神分析は先鋭的な集団の運動として一般に普及し、反発を招いている。
けれども、現代における意欲的な活動は運動ではなく、現象である。芸術がそれを体現している。ニヒリズムに代わって商業主義が芸術を襲う。高度に発達した資本主義社会では、すべては商品化される。神でさえも、例外ではない。神の死は決定不能性に置かれる。芸術の根拠は無ではなく、決定不能性に陥る。その組織的な活動はカリスマ性を持ったインプレサリオに代わって、アーツ・マネージメントに基づく必要性がある。
アーツ・マネージメントは文化の経済学とも言うべき方法論である。社会科学の諸成果を生かし、グローバルな観点を採用しつつ、アカデミックなアプローチを中心に、文化の質を確保・向上させながら、産業・活動として機能させる方法を考察する。その領域は劇場や美術館、スポーツ・チームの運営、村おこしを含めた都市計画、NGOの文化事業、音楽・映画制作といったポピュラー文化にも及ぶ。近代以前、公共の場は人の集まる場所を意味している。広場や市場、劇場、宗教施設などがその一例である。そこはたんなる商取引や芸術鑑賞ではなく、社交の場でもある。そういう場所には芸術作品が置かれているものだ。地元の有力者たちは自分がいかに芸術をわかっていて、太っ腹であるかを市民にアピールするため、芸術家に作品を依頼する。ドナテルロの彫刻はフィレンツェの公共性の表象であり、ミケランジェロ・ブエナロディのダヴィデ像は共和制に完全に復帰したフィレンツェから依頼された公共事業である。ところが、近代に入ると、人々の行動とは関係なく、国家や自治体が管理者となって計画・実行される事業が公共と見なされるようになってしまう。日本中でよく見る人の寄りつかないような公会堂は、公共の場ではなく、利権を貪る連中の私的な空間でしかない。公共と社交は不可分であったのに、社交が失われてしまっている。社交を復権しなければならない。公共性は社交から生まれるのであり、現代にふさわしい社交の場をつくり出さなければならない。アーツ・マネージメントは公共性と社交の再検討にほかならない。
君がいなけりゃ 夜は暗い
春の陽ざしの中も とてもクライ
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック
Oh Baby いけないよ
Baby Oh Baby どこに行くの No, No
他人の目を気にして生きるなんて
くだらない事さ ぼくは道端で 泣いてる子供
Oh Baby(Oh Baby) Baby い・け・な・いルージュマジック
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック
君がいなけりゃ 夜は暗い
春の陽ざしの中も とてもクライ
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック
No, No 他人がとやかく言っても
どうしようもない事さ
Hey 誰もあの娘をとめられない
(Baby) Oh Baby(Oh Baby) い・け・な・いルージュマジック
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック
(Baby) Baby Oh (Oh Baby) Baby Oh い・け・な・いルージュマジック
(Baby) Oh Baby(Oh Baby) い・け・な・いルージュマジック
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック
(Baby) Baby Oh (Oh Baby) Ya い・け・な・いルージュマジック
(Baby) Baby Baby (Oh Baby) Baby Baby い・け・な・いルージュマジック
(Baby) Oh Baby(Oh Baby) Baby い・け・な・いルージュマジック
(Baby Oh Baby) い・け・な・いルージュマジック
(Baby) Baby Oh Baby Baby Baby い・け・な・いルージュマジック
(Baby) Oh (Oh Baby) Ya い・け・な・いルージュマジック
(Baby) Oh Yeah(Oh Baby) Ya い・け・な・いルージュマジック…
(坂本龍一=忌野清志郎『い・け・な・いルージュマジック』)
Critical Spaceの主催者はこうした社会的・歴史的変化を考慮しない。社交とはまったく縁遠くなってしまっている。彼を含めて、日本において文芸批評家の影響はドラッグである。何もしていないのに、何かをしているような気にさせ、依存性がある。それは彼らがインプレサリオだったからである。今日の文芸批評家はディレクターであり、プロデューサーであり、マネージャーでなければならない。
 中上健次は、『青い血、青アザ−柄谷行人』において、彼の友人の無根拠性への固執について父性の欠落だと次のように述べている。
不思議な事だが、何から何まで違うのに関心が一致してしまい、こいつ俺と同じように青い血だな、青アザがあるなと思うしかない人間がいるものである。柄谷行人の「探求」の連載開始時に、つくづく思ったのだった。青い血や青アザを人に認めるのは不愉快なものである。ちょうどニューヨークのコロンビア大学の客員研究員で滞在している頃、わざわざシカゴ大学での講演で柄谷行人批判をやった。「探求」はつまり実存主義に行くだけじゃないか、というのが骨子だった。しかし本音は、胸の青アザが気に喰わない、青い血が嫌いだ、という事である。そんな事言っても詮ないのは百も承知だった。柄谷行人の青い血、青アザは、出会ったのっけから分かった。もう遠い昔の事で細部は定かでなくなったが、喫茶店に腰をおろして話しはじめ、純正の詩人、小説家の資性をかぎとめたのだった。以降、私には柄谷行人は批評家ではないのである。
文芸批評をやり、現代思想の中に入っていくが、それは彼が怠惰であり、信じられぬくらい臆病であり恥ずかしがり屋であるせいだ。また彼の周りの文芸雑誌の編集者が才能なく努力なく勇気がないから、詩や小説に直に挑んでみろと勧めないからである。私と出会った当初、二十五歳の柄谷行人は小林秀雄を、吉本隆明を、江藤淳を熱心に、何時間も論じていた。吉本隆明や江藤淳を直に知っていると言って、私を嫉妬させた。当時の私は既成作家や評論家の誰も知らなかった。会いに出かける考えもないし、会ったとしても、うまく口をきけない。下手にしゃべれば思ってもみない罵倒をしでかしそうだった。現に、二人を引きあわせてくれた当時の三田文学の編集長だった遠藤周作の前で、私は何もしゃべれなかった。しかし彼は違う。子が父をさがすように、弟が兄をたずねるように、評論家の元に出かける。後に吉本隆明、江藤淳の二人を批判するのを頭に入れて見直せば、おそらくこれも、青い血、青アザのしからしむ行動なのであろう。
小林秀雄以降の現代批評で柄谷行人ほど詩と小説に繊細に反応している批評を他に知 らない。言葉を変えれば詩と小説に嫉妬し、劣等感を抱いている人間を知らない。小林秀雄のように年少の頃、詩や小説に挫折したのかどうか定かではないが、柄谷行人には詩や小説は現実、実存の福音や恩籠であるという認識がある。もちろんそれは佳作、秀作を前にした時であって、失敗作駄作はその限りではない。
この作品への感応は小林秀雄に似ている。おそらくそれは彼が関西の芦屋で、父母に溺愛され、生活臭が微塵もないという境遇に成育したからであろうと思う。溺愛は用意に欠乏を生むし、関西という多民族、多文化混合の土地を考えれば、生活に対する想像力は十分すぎるほど刺激される。この批評家の境遇から、彼の著作に横溢する根拠のないファナティズム、反エディプス・コンプレックスの特性が導かれる。つくづく不思議な批評家、思想家であると思う。
三田文学の編集室で遠藤周作に引き合わされてから二十三年経っているので、この批評家の個性を表わすエピソードは数かぎりなくある。湯河原へ「茉利花」の奥田茉利さんと一緒に行った時だった。朝食を食べはじめた彼を見て、こづいてやりたくなってムズムズした。というのも、左手に持った茶碗を口のすぐ前に持っていき、くちゃくちゃ食いながら、ぺちゃくちゃド・マンがどうの、デリダがどうの、としゃべる。まず茶碗の持ちかた、次に物の食べ方、次に食べながら話す点をどやしてやりたいのだ。話題のつまらなさは二の次、三の次である。
石原慎太郎の接待で一緒に平河町の料亭に行った事があった。柄谷行人は当時禁煙をしていた。ワインを飲もうという事になり、石原慎太郎はワインを注文した。柄谷行人は、何に興奮したのかのっけから話し続けだった。ワインが運ばれ、乾杯し、話し終えないまま柄谷行人はワインを一息で飲んだ。まだ話し続ける柄谷行人に石原慎太郎はワインを注ぎ足した。そのワインも彼は話し続けながら一息に飲み干した。石原慎太郎はワインを置く暇もなく、柄谷行人のワイングラスに注いだ。それをまた一息に飲み干した。そうやって二本のワインを彼は一人で空にし、話しながら、ワイングラスを持ったまま座椅子から転げ落ちた。(略)
唖然とするしかないが、理屈をこじつければ、これらのエピソードから、柄谷行人は小林秀雄が切り展いた父性としての批評をはなから問題にしていない事があきらかになろう。問題にしていないと言うよりも、問題に出来ないのだ、とも言える。何しろ柄谷行人といると、批評ではなく小説が批評を庇護し、方向を与える器であると思えてくるのだ。小説が父を無化し、子を庇護する兄=アイヤとしての自由な器だ、と思えてくる。
おそらく柄谷行人の批評が根拠のないファナティズムに満ちているのは、この父性の 欠落に起因するのだろうし、「探求」での内と外を巡っての思考、教える、学ぶの思考は、欠落を自覚した者の、父─子、神─人間への用意周到の接近戦なのであろう。根拠のないファナティズム、父性欠落は日本浪漫派、戦前の再発見につながるのだろうか?昭和天皇の病気、崩御の際の薄っぺらな発言はどう変化するのだろう?と同じ青い血、青いアザの私は見ている。再度言う、柄谷行人は評論家ではなく純正の詩人、小説家なのである。
 熊野の偉大な小説家の言うように、熊野大学夏季セミナー講師の批評は「根拠のないファナティズム」に満ちている。彼は、殺すべき父がいないとばかりに、世界の無根拠さを告げて回る。「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものである」(フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜』)。
 あなたに今夜はワインをふりかけ
心まで酔わせたい 酔わせたい
アアあなたを
(沢田研二『あなたに今夜はワインをふりかけ』)
「青い血、青アザ」は、『可能なるコミュニズム』において、資本主義が運動であり、その対抗も運動でなければならないだと次のように述べている。
九〇年以後、私は単なる資本主義批判ではなく、それを克服するための何か積極的な方法と論理的根拠を模索していたのである。(略)本書において、私たちの意見はさまざまに分かれているが、ただ一つの点において、つまり、マルクス主義運動の壊滅的な解体と幻滅ののちになお、いかにしてコミュニズムを積極的に考えうるかという関心において、共通している。 
しかし、資本の運動は終わらないけれども、それはそれに対抗する運動がなければ終わらないということです。それはけっして自動的には終わらない。それを阻止しようとするのは倫理的な動機以外にはない。
確かに、資本主義は父なる神の死と共に始まっているが、現代社会には「父性」は欠落しているのではない。すべてが商品化されてしまうために、その存在が決定不能性に陥り、「母性」が過剰になっている。「父が対立であるとするなら、母は包容であったろう。しかし、包容されるということは、所有されるという意味を含んでいる。象徴レベルで、対立するものとしての、父の支配を倒すことはできる。しかし、原理的にいって、みずからを包みこむものとしての、母を殺すことはできない。包みこまれることによって、殺されるのは自分のほうである」(森毅『父と母と、そして子と』)。資本主義は世界を「包容」する。「包容」とは「母の影に脅え続けること」である。資本主義の克服を運動によって達成することは可能ではない。運動は一定の方向を持った力であるが、資本主義の拡散は必ずしも一定の方向ではない。「父性の欠落」にある批評家は父を問題にしているが、資本主義は、むしろ、母の原理に基づいている。
Her Majesty's a pretty nice girl
But she doesn't have a lot to say
Her Majesty's a pretty nice girl
But she changes from day to day
I want to tell her that I love her a lot
But I gotta get a bellyful of wine
Her Majesty's a pretty nice girl
Someday I'm going to make her mine, oh
yeah
Someday I'm going to make her mine
(The
Beatles “Her Majesty'”)
グローバリゼーションが示しているのは資本主義が運動ではなく、不可逆的な現象だという点である。コミュニズムを運動として認識している限り、それは現代の資本主義の対抗原理としてさえ機能できない。
可能なるコミュニストは、『可能なるコミュニズム』の中で、資本主義が非資本主義的経済活動を飲みこんでいく運動であると次のように述べている。
非資本的生産−消費がいかに浸透しようと、それは資本の自己増殖の運動を止めることはできないだけでなく、そこに吸収されてしまうほかないだろう。従って、それと同時に、資本制に対抗する運動が資本の運動の内部でなされなければならない。私はそのような運動への鍵を、『資本論』、特に、価値形態論に見いだした。それは、ごく簡単に言えば、資本への対抗運動の場を、生産過程ではなく流通過程にシフトすべきだと言うことである。
このネオ共産主義者の資本主義に関する議論は従属理論やポストコロニアリズムと同様の主張である。資本主義は外部を吸収し、その内部に差異をつくり出してゆくというわけだ。その前提に基づき、彼は、『トランスクリティーク』において、カントとマルクスの相関性を説きつつ、資本=ネーション=ステートの三位一体に対抗する力を労働運動や党派ではなく、消費者の自律的なアソシエーションに求める議論を展開する。
カントを通じてマルクスを読み直すと同時にマルクスを通じてカントを読み直す試みが刺激的であったとしても、それを現在の資本主義分析に直結するとき、かのポスト・マルクス主義者の今日的な意義を十分に見出すことはできない。むしろ、不完全性定理が告げた決定不能性は二〇世紀の資本主義社会をはるかに表象している。神の死の決定不能性が資本主義を発展・拡散させていっている。「数学が時代としてのメタファーでありうるのは、引用の正確さではなしに、その共鳴への態度によっている」(森毅『一刀斎の古本市』)。
不完全性定理以後の基礎論の流れを省みるとき、現代資本主義の姿が明瞭になる。一九世紀から二〇世紀初頭にかけて志向された数学基礎論に代表される純粋数学は、言ってみれば、数学におけるモダニズムないし運動としての数学である。自己充足的な世界を構築するこの数学の運動は不完全性定理によって挫折する。以降、純粋数学に代わって応用数学が主流となるが、それは方向性を持たず、拡散していくエントロピー性の高い現象である。数学基礎論は、一九三一年以降、不完全性定理を研究するより、いかにそれを克服するかというテーマで発展している.それは対象としての数学のどの側面を研究するかにより、四つの分野に分かれる。数学の証明の記号操作を研究する「証明論」、具体的な手続きで構成される対象を研究する「帰納的関数論」、幾何学的構造、代数的構造等の構造を研究する「模型論」、数学的前提を研究する「公理的集合論」である。基礎論の基礎はゲーデルの完全性定理・ゲーデルの不完全性定理・ゲンツェンの基本定理の三つの定理に集約される。ゲルハルト・ゲンツェンの基本定理は体系の無矛盾性を示す手段として開発されており、ある定理を導く論理の道筋には、その定理自身と公理より複雑なものは現れないようにできるという主張である.大前提と小前提から結論を導き出す三段論法において、結論より前提の方が複雑な式になっており、それが公理の一部でない限り、三段論法は不要である。「数学で、証明されてもわからんことは、よくある。証明は所詮が説得の手段で、納得するわけではない」(森毅『夢みる脳』)。数学者たちは数学の前提と整合性がある仮説を付加して、さまざまな数学世界を構成できるのではないかと態度を変更する。いかなる仮説が数学の前提と整合性を持ちうるのか、もしくは数学の前提に、ある仮説を付加すれば、どのような数学世界となるのかが数学基礎論のテーマにシフトする。田中一之の『逆数学と2階算術』によると、数学の定理の証明にどれだけの公理が必要かという問題を数学基礎論の現代的な舞台装置の上で考えてみようという「逆数学」も提唱されている。逆数学では、特に2階算術という枠組みにおいて、ある定理を証明するのにどの程度の集合存在公理が必要かを調べ、必要な存在公理によって数学の命題の世界に等高線を入れてみると、数学史の流れや異なる理論間の感覚的な類似性が捉えられる。と同時に、数学の基礎付けよりはその応用を志向し始め、応用または交流の範囲はコンピューター・サイエンスの諸分野から超準的手法による解析学や代数学、代数幾何的研究まで拡散している。かのプリンストン大学教授は運動としての数学を終わらせただけであって、現象としての数学の可能性を指し示している。不完全性定理はそのスタートであって、ゴールではない。
Now here you go again 
You say you want your freedom 
Well who am I to keep you down 
It's only right that you should 
Play the way you feel it 
But listen carefully to the sound 
Of your loneliness 
Like a heartbeat drives you mad 
In the stillness of remembering what you
had... 
And what you lost... 
And what you had... 
And what you lost... 
Thunder only happens when it's raining 
Players only love you when they're playing
Say women...they will come and they will
go 
When the rain washes you clean you'll
know... 
You'll know 
Now here I go again, I see the crystal
visions 
I keep my visions to myself 
It's only me 
Who wants to wrap around your dreams
and... 
Have you any dreams you'd like to sell? 
Dreams of loneliness 
Like a heartbeat drives you mad 
In the stillness of remembering what you
had... 
And what you lost.... 
And what you had... 
And what you lost... 
Thunder only happens when it's raining 
Players only love you when they're playing
Women they will come and they will go 
When the rain washes you clean you you'll
know 
Thunder only happens when it's raining 
Players only love you when they're playing
Say women they will come and they will go 
When the rain washes you clean you'll
know... 
You'll know.... 
You will know.... 
You'll know...
(Fleetwood
Mac “Dreams”)
数学の問題の証明も変化している。四色問題の解決にはコンピューター・アルジェブラ・システム、通称CASが用いられている。三台の別々のハード・ウェア上で異なったプログラム言語で書かれたプログラムを走らせて、その難問を解いたのだが、ハードの中にトラブルがない、あるいはプログラムにバグが存在しないとは誰にも言いきれない。従来の問い=答えの図式ではなく、アルゴリズムが問われている。一台だけならともかく、三台と同じ結果が出たのだから、解けたと見なされている。この解法自体決定不能性にある。
現在の科学的認識はかの偉大な批判哲学者がそのパラダイムとした古典力学にとどまっていない。アンリ・ポアンカレは、一九世紀後半に、運動方程式を用いた三体問題の一般的な解法の不可能性を見出している。自然科学は、線形の事象に限っては、理論的体系を構築してきたが、非線形に対して事実上お手上げである。ところが、ほとんどの自然現象は非線形に含まれる。そこで、それを認識するために考案された複雑系は原因=結果の因果関係に囚われない。コンピューター・シミュレーションによって非線形・非平衡現象をヴィジュアル化する。しかし、それにはコンピューターのイノベーションは不可欠である。
Lady Macbeth: Here's the smell of the blood
still: all the perfumes of 
Doctor: What a sigh is there! The heart is
sorely charged.
Gentlewoman: I would not have such a heart
in my bosom for the dignity of the whole body.
Doctor: Well, well, well,--
Gentlewoman: Pray God it be, sir.
Doctor: This disease is beyond my
practise: yet I have known those which have walked in their sleep who have died
holily in their beds.
Lady Macbeth: Wash your hands, put on your
nightgown; look not so pale.--I tell you yet again, Banquo's buried; he cannot
come out on's grave.
Doctor: Even so?
Lady Macbeth: To bed, to bed! there's
knocking at the gate: come, come, come, come, give me your hand. What's done
cannot be undone.--To bed, to bed, to bed!
(“Macbeth” Act 5 Scene 1)
パソコンが一般家庭に普及し始めた一九九〇年代に入ると、無根拠の批評家の作品はかつてほど読まれてはいない。『トランスクリティーク』は、八〇年代の著作のような影響力を獲得できない。彼の作品は東西冷戦構造と日本の経済発展を背景にしており、グローバリゼーションに対応した議論を十分に提供できない。横断的かつ超越論的な批評の提唱者は、ポスト構造主義世代の西洋の思想家同様、西洋形而上学の伝統に立ち返り、それを再検討することから、現在の状況ならびにその先を見つけようとする。そういった試みは、アカデミズムは別にして、一般的には受け入れられていない。それは彼の資本主義観が反省と自己批判を通じた外部の内面化という西洋形而上学の特徴と通じているからである。西洋形而上学は線形的な世界を構築してきたのであり、その回帰は効果的でない。
『探求』の筆者は外部=他者の重要性を強調し続けてきたけれども、この外部は殻の批評が閉じられていることを示している。
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
わたしがそなたで そなたがわたし
そも わたしとは なんじゃいな
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
おもてがござれば うらがござる
かげがござれば ひかりがござる
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
ふたりでひとり ひとりでふたり
うそがまことで まことがうそか
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
ややこしや!
(野村萬斎『まちがいの狂言』)
外部性の思考を唱える批評家は、『探求U』において、オープン・システムについて次のように語っている。
共同体からはじめることは、諸科学によって支持されている。自然科学に似せようとした文化諸科学が、閉じられた単一の均衡システムから出発したのは、ある意味で当然である。そこでは、自己組織的・自己調整的なシステムが見出されるし、あるいは閉じられた数学的構造が見いだされる。もちろん、身体器官にも癌や自己免疫疾患が生じるように、そのようなシステムにも不均衡や破局が生じることもあるが、そのこともシステム(共同体)の内部だけから説明されうる。オープン・システムといっても、外部そのものをふくむ単一システムにすぎない。
自己組織的システムは初期値敏感性を持ったカオスに含まれる典型的な非線形現象であり、非平衡システムである。気象はカオスの一種であるが、地球の平均気温が五度違うだけで、環境に与える影響は大きい。カオスは決定論的非周期性、すなわち短期的にはスピノザ的、長期的にはライプニッツ的な現象である。自己組織的システムにおける自己は非線形であり、他者も非線形にいる。オープン・システムやクローズド・システムは、本来、熱力学の用語であったものが諸分野に応用されている。前者は非線形・非平衡の系、後者は線形・平衡の系を意味している。自己組織的システムでは、内部と外部の境界が決定不能になっており、それは「閉じられた単一の均衡システム」ではないし、線形の方法では把握できない。
初期値敏感性のシステムは初期値が不明であるから、予測できないわけではない。「チューリングマシンの停止問題」、ならびに一般化シフト写像や同様の二次元写像による長時間後の振る舞いは決定不能である。初期値がわかったとしても、「回路積分」(リチャード・ファインマン)は成立しない。こうしたバタフライ効果以上に強い決定不能を内在するカオスを「コンプレックス・カオス(Complex Chaos)」と呼ぶ。決定不能性を持つ決定論的力学系には、万能チューリングマシンのように高い情報処理能力が期待されている。
日本近代文学の保守本流を自認するかの文芸批評家に限らず、戦後の文芸批評は閉じられた系の中で発達してきている。系が開かれたとき、その影響力はなくなる。東西冷戦構造は閉じられた系であり、核の均衡論もそれによって可能になる。核不拡散条約は閉じられた系を維持するために、締結される。その東西冷戦構造が崩壊すると、世界は開かれた系へと変容する。非線形・非平衡の状況下、核の均衡論は理論的根拠を失われる。開かれた系を経済的にはグローバリゼーションが蹂躙する。資本主義において、金融市場が先行するため、財・サービス市場と労働市場との間に乖離が生じ、金融経済は実体経済を反映しない。資本主義において、金は蓄積するのではなく、投資するためにある。金融資本は投資先を政治的安定性と開放性を基準に捜し求める。グローバリゼーションは運動、すなわち微分方程式的な観点からは把握できない。それは外部を内部化して差異化するのではなく、開かれた系において、初期値の敏感に反応し、雪崩現象を起こす。批評も「変わらなきゃの話」(森毅)になっている。
Seyton: The queen, my lord, is dead.
Macbeth: She should have died hereafter;
There would have been a time for such a
word.
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day
To the last syllable of recorded time,
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief
candle!
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the
stage
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
(“Macbeth” Act 5 Scene 5)
『倫理21』の作者は、『可能なるコミュニズム』において、こうした時代での倫理と経済的基盤の関係の重要性について「倫理なしのコミュニズムは国家資本主義にすぎない。だが、経済的基盤なしの倫理は空疎である」と次のように説いている。
コミュニズムは単に経済的な問題ではない。それは、カントの言葉で言えば、「他者を単に手段としてのみならず、同時に目的として扱え」という倫理的な課題の追求である。このような倫理なしのコミュニズムは国家資本主義にすぎない。だが、経済的基盤無しの倫理は空疎である。
 アダム・スミス以来、資本主義において倫理と経済的基盤の社会的ジレンマは続いている。横断する批評家はそれを克服する鍵を運動に見出している。しかし、彼が『トランスクリティーク』で警告する環境問題は熱力学第二法則に基づいている。エントロピーの不可逆性はアイザック・ニュートンの可逆性を前提にした運動をめぐる認識ではどうにもならない。線形的・平衡的な手法自体は否定すべきではない。たとえ非線形現象が着目されているとしても、線形的な方法の完成度と重要性は無視できないからだ。けれども、非線形現象に線形的アプローチをとるのは効果的ではない。経済基盤と倫理の関係はkaratani webの開設者とは別の捉え方から考える必要があろう。「だが、マニアックにはまっている人は、スピードゲームには興味がない。人の知らない手を見つけることが無上の喜びで、そこに至る過程がおもしろい。はじめはなにがなんだかわからないから、のめりこまない。しかし、一応の手順を知ると、誰かに教えたくなる。他人ができなかったのに、自分ができると、『ほら、このやり方でいける』と伝えたい。でも、まだこの程度ではマニアとはいえないとは、凝りに凝った人たちの意見。そのうちに、自分でオリジナルの手を開発しだす。このときに、なにが楽しいか。ほぼできかけて、あともう少ししたら、最後の詰めに入るという瞬間である。完成してしまったら、アホらしくて同じ手を二度とやる気は起きない。人生という名のパズルだって同様。最初から手がわかっているのなら、やる価値なんてほとんどない」(森毅『解けてしもうたら、やる気など起きないがな』)。
Hej, Jude, co dá ti pláč,
oči pálí a slzy zebou,
víc nemáš, jen malý poslední
dar:
znáš písní pár, ty půjdou s
tebou.
Hej, Jude, že má tě rád,
to se v písních tak snadno
zpívá,
na rubu všech písní, kde končí
rým,
tam leží stín, který nám zbývá.
Svět je krásnej, svět je zlej,
hej, Jude, věř v něj,
do vínku nám dal víc ran a
boulí,
a do těch ran ti sype sůl a
láme hůl,
tak vládne nám svět, tak s námi
koulí,
ne ne ne ne ne ne ne ne ne.
Hej, Jude, tvou píseň znám,
když ji zpívám, tvé oči září
a potichu a skromně broukáš si
dál,
až celý sál jen tobě patří.
Tak jen pojď sem, já půjdu tam,
hej, Jude, já mám
tvůj lístek až tam, kde málo
vidím,
jen poslouchám a skrývám stud,
hej, Jude, Bůh suď,
proč zpíváš líp, já nezávidím,
ne ne ne ne ne ne ne ne ne.
Hej, Jude, ty víš a znáš,
oči pálí, snad mám v nich
slídu,
jen proto v tvých ústech
překrásně zní,
ty zpíváš v ní celou světa
bídu, bídu, bídu, bídu, bídu, bídu,
da da da da da da da da da da
da, hej, Jude ...
(Marta
Kubišová, John Lennon a Paul McCartney “Hej,
Jude”)
ある現象が起きた際、その原因と結果の因果関係を見出し、分析するのではなく、現象自体を言説を用いて、シミュレーションし、記述する。ファナティズムの批評家は書くことを工学にはしなかったが、今や書くことはこうした工学である。書くのと同様、読むことも非戦形性・非平衡性を具現化した工学でなければならない。ヨーロッパを徘徊する赤い幽霊の作品を読みこんで、現代社会を読み解くのではなく、現代社会にとってその言説をいかに使うかを考察する。読解を一九世紀的な解釈から二〇世紀的な道具へと見直す必要がある。テオドール・W・アドルノ=マックス・ホルクハイマーは、『啓蒙の弁証法』において、「道具化した理性」を人間の道具化へとつながると批判したが、道具を使うことによって身体は意識される。フランクフルト学派流の発想は線形的世界観に基づいている。エンジニアリング・リーディングを今や提唱しなければならない、”Verfolgt das Unrecht nicht zu
sehr” (Bertolt Brecht “Die
Dreigroschenoper”).
亀井勝一郎賞の批評家がかつて『マルクスその可能性の中心』の中で「読む」ことについて次のように語っている。
 すべての著作家は一つの言語・論理の中で書く以上、それに固有の体系をもつ。しかし、ある作品の豊かさは、著作家が意識的に支配している体系そのものにおいて、なにか彼が「支配していない」体系をもつことにある。それこそ、マルクスがラッサール宛ての手紙でいったことである。私にとって、マルクスを読むことは、価値形態論において「まだ思惟されていないもの」を読むことなのだ。
 基本的に、私はマルクスをそれ以外のいかなる場所でも読まないだろう。マルクスをその可能性の中心において読むとは、そういうことにほかならない。
西洋形而上学への回帰を拒否する批評家たちは、結局、ゴシップ化するか、従来はサブカルチャーに属していた領域をとりこむかといった方法論の行き詰まりを露呈している。「ベリサリウスにオポロース銀貨を与えよ(Date obolum Belisario)」。そうした今、この批評家の理論的著作を「その可能性の中心において読む」意義は三つある。”Why should I play the Roman
fool, and die On mine own sword? whiles I see lives, the gashes Do better upon
them”(“Macbeth” Act 5 Scene 8).「彼は絶望したのではない。ただ過大な希望と過大な絶望の悪循環にうんざりしただけである」(柄谷行人『マクベス論』)。一つは、モダニズムの意義や現代性を再検討するように、集合論の時代の社会的・歴史的状況を理解する鍵として利用する。彼の線形性・平衡性を高度化・実用化させると言ってもよい。次に、不完全性定理の意義を踏まえて、八〇年代のカリスマが停止した地点から踏み出す。それは決定不能性というキー・ワードによって資本主義を考察することである。ラカンであれば、複素力学のフラクタル性もしくは複素数のジオメトリック・アルジェブラを応用して考えるほうが今日的である。最後に、阪神タイガース・ファンの批評家を相関性のパンクとして応用する。「もし全人類が偉大な芸術や深遠な科学ばかり追求していたら、人類は機能しなくなるだろう。わずかな連中だけが携わってきたことはいいことなんだ」(グレゴリー・チェイティン)。
Macbeth: Accursed be that tongue that
tells me so,
For it hath cow'd my better part of man!
And be these juggling fiends no more
believed,
That palter with us in a double sense;
That keep the word of promise to our ear,
And break it to our hope. I'll not fight
with thee.
Macduff: Then yield thee, coward,
And live to be the show and gaze o' the time:
We'll have thee, as our rarer monsters
are,
Painted on a pole, and underwrit,
'Here may you see the tyrant.'
Macbeth: I will not yield,
To kiss the ground before young Malcolm's
feet,
And to be baited with the rabble's curse.
Though Birnam wood be come to Dunsinane,
And thou opposed, being of no woman born,
Yet I will try the last. Before my body
I throw my warlike shield. Lay on,
Macduff,
And damn'd be him that first cries, 'Hold,
enough!'
(“Macbeth” Act 5 Scene 8)
カントール集合がフラクタル性(フラクタルとカオスは独立しているが、関連性が高い)を持っていたように、彼の批評はカオス性を体現しているのであり、相関関係の記述をさらに拡大させ、あらゆる領域にまで及ばせるのが望ましい。それらはいずれも柄谷行人を「その可能性の中心において」使う態度の変更である。”thatness, thereness a deep
blue rush in time” (Ryuichi Sakamoto ”Thatness
and Thereness”).さあ、引っ越しだ−−新しい住所へ!
はるか昔、映画産業の全盛期には、ハリウッドの俳優たちは大家や、レストラン店主や、衣料品店主などなどから畏怖の目を向けられていた。きみは少々遅すぎたと知るべきだ。破産裁判を覗いて、あふれかえる期日遅れの請求書をめぐるちっぽけな争いを見てみるがいい。何軒も何軒も連なる倉庫は怒った債権者たちによって借金のかたに差し押さえられた衣服、家具、自動車、テレビやラジオであふれかえっている。債権取り立て業はこのあたりにあふれている!そしていいか、たいていの場合、連中は行動に移す。わざわざ弁護士を雇う金を払って法廷に持ちこみ、裁判でも九割までは勝つ。きみはもともとの請求書に先方の弁護士費用、裁判費用まで持たされることになる。金を借りただけで刑務所に行くことはないなんて思ったら大まちがいだ。「破産刑務所」なんてものはないのかもしれないが、ムショに行くのは同じだ。だけど、連中はまずきみの財産をひっぺがす方を好む。きみに不利な判決がくだると、債権取り立て屋は狡賢くきみの車を奪い(たとえ金を借りた先が別のところだったとしても)、給料を差し押さえ(給料がある場合)、家具を奪い去る。
 隠してしまえば奴らの手も届かない。引っ越しだ−−新しい住所へ。
(エドワード・ウッド・ジュニア『エド・ウッドのハリウッドで成功する100の方法』)
〈了〉